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【神社新報記事】 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」愛媛縣護國神社
投稿日:2025年8月14日(木)
ここ数年、コロナ騒動をきっかけ冷凍自販機やスイーツ自販機、クッキーの自販機が増えました。しかしその一方でニチレイのホットスナック自販機は完全に撤退したそうです。自販機であれば売れる、というわけではないんですね。需要の把握は難しいものです。昔懐かしいドライブインのうどん自販機(長沢ガーデン)が恋しい権禰宜の宇多です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年4月21日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。

全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
待ちわびた父の声 六百通の手紙
愛媛縣護國神社宮司 額田 照彦

「明治四十二年十二月、伊予郡佐礼谷村(現・伊予市中山町佐礼谷)に生まれた飛田俊夫命は、伊予実業学校を卒業後、父の土建業を手伝ひつつ、蜜柑や栗を取り入れた農業を営んでゐた。昭和四年、騎兵第十一連隊を志願し、同七年の上海事変に出征。復員後に結婚し、二女一男の父となる。
大東亜戦争に際し、昭和十七年六月応召。戦地からの約六百通の葉書は、南支那より、同十八年秋からはニューギニアより、故郷の家族や親戚、近隣の人たちに宛てたもので、昭和十九年十月二十三日、西部ニューギニア・イドレにて三十六歳で散華されるまで送られてきたといふ。
俊夫命の長女・髙市禮子さん(八八)は、色褪せた六百通の葉書を前にして、「終戦から七十九年が経った今もなほ、そこには家族の濃密な時間が流れてゐる」と回想する。
禮子さんは、今でも昭和十七年六月の出征の日を忘れられないでゐる。あの日家族写真を撮った後、父の背中が曲がり角に消えたとき、日の丸の旗を振ってゐた六歳の禮子さんは、いつもと違ふ雰囲気に寂しさがこみ上げてきて、涙をこらへきれず泣きじゃくってゐたといふ。周りの大人からは「縁起が悪い」と叱られたが、泣き声を聞いた父は駆け戻り、高々と抱き上げてくれたさう。それが俊夫命と触れ合った最後の記憶となった。
あの日以降二年余り、中国南部やニューギニアから届いた葉書。出征して間もなくは、彩り鮮やかな絵はがきが使はれてゐた。しかしその後は物資不足からか、薄いメモ用紙に、「郵便はがき」と記されるやうになる。筆まめだった俊夫命からの手紙の数も急激に減ったといふ。
検閲で、黒く塗りつぶされたものも少なくなかった。実際はニューギニアに転戦してゐたが、差出人住所も「横須賀局気付」と書かれてをり、家族ははっきりとした居場所が戦後までわからなかったといふ。
また、手元に残る手紙のなかには「検閲済」の印がないものも。戦地から戦友らに託し、手渡しで家族の元に渡ったものである。そこには、地名や日時、部隊の上官の名前が細かくしたためられてをり「生きて還る」といふ本音も垣間見えた。娯楽がほとんどない戦地で、家族や友人から届く手紙は最大の楽しみであり、俊夫命の心を癒してゐたのだらう。
手紙はどれも家族を思ひやる内容で、「父の声そのもの、いつもいつも待ちわびてゐた」と禮子さんは言ふ。戦地の悲惨さは伏せられ、家族や田畑の様子など故郷を思ふ言葉で溢れてゐた。「マイバン ホシヲイタダイテネルタビニ ミンナハドンナニ オオキクナッタコトダロウト カンガヘテミマス」。まだ漢字が読めない子供たちへは、カタカナで文章を綴った。日本で手紙を受け取る家族にとっては単なる手紙以上の価値があったことだらう。送り出した兵士の無事を確認する”命の便り”といふ意味合ひも強かった。
「父よりもずっと年を重ねた今、どんなに愛されてゐたのか、同時に父がどんなに無念だったか……多くの普通の家族が離れ離れになった戦争。今は平和を、当たり前の日常を願ふばかり」と禮子さんは語った。この六百通の手紙・葉書は当神社「祈念史料室みゆき」に奉納され展示してゐる。
愛媛縣護國神社
住所 愛媛県松山市御幸1-476
電話 089-925-2353
祭神 四万九千七百二十七柱
例祭 春(四月十日)・秋(十月十日)」
















