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原子力発電所・・・ある宮司の手記

投稿日:2011年6月9日(木)


人間・自然破壊の原発に神の地は売らず

 

神社、鎮守の森の永遠は村落の永続

 

 

 瀬戸内海に面した山口県上関町。NHKの連続テレビ小説「鳩子の海」の舞台ともなった町である。ここには中国電力による原子力発電所の建設計画があり、住民の反対運動が20年続いている。建設予定地の二割は八幡宮の神社地、原子炉の予定地もそのなかである。「原発は人間・自然を破壊する。死んでも土地は売ることはできない」という宮司の手記──

 

なぜ神社地売却に同意できないか

 

 すでに電力需要は減少傾向に入り、原発にまさるとも劣らぬ大型発電所の建設計画が次々と中止されている。さらに太陽光・風力などの再生自然エネルギーはもとより、無公害の燃料電池の出現を目前にしたエネルギー革命が生じようとしているにもかかわらず、現在もなお原発に固執するのはいかなる理由からであろうか。

 

 瀬戸内海に浮かぶ長島、山口県熊毛郡上関町の四代地区にわが国最後の原発といわれる上関原発が建設されようといている。計画が公表されて20年、原発の是非をめぐり、肉親の間ですら対立が続いている状態である。のどかで平和であった村落が未曾有の事態となってしまった。わずか100戸ばかりの村落において、住民同士の裁判が3件も係争中なのである。

 

 小さな町におよそ450億円もの大金が投下されたといわれる上関町においても、多くの住民は放射能被爆の恐ろしさに日々、不安をいだいている。いったん事故が生じれば、山口県のみならず、四国・九州にわたる広大な瀬戸内海地域に暮らす人びとの生死にかかわる問題である。東海村やチェルノブイリのあの大惨事は、二度と繰り返してはならない。ここに  述べるまでもなく、東海村の臨界事故で被曝された方々の苦しみは、いったい誰がいかなる方法で何を償うことができるというのであろうか。倒れし人びと、傷つきし方々の、苦難の人生は、いったいどうなるのであろうか。再び健康な身体を恢復することはできない。かけがえのない生命が毀損されたのである。

 

 八幡宮の神社地が売却されてしまうと、直ちに調査・着工という段階に立ちいたってしまったが(編集部注・・・逆に、売却されない限り建設のめどは立たない)、原発立地のために神社地を売却することはできない。自然環境が著しく破壊され、人類の生存すら危ぶまれる状況のなかにあって、神社界もまた鎮守の森や神社土地を護り、公害から地域住民を守ることが、喫緊の課題とされているわけである(「神社本庁規定類集」)

 

 原発は公害の最たるものである公害の最たるものに神社地を売却することができないのは、当然の論理である。東海村やチェルノブイリの大惨事を顧みれば明らかなごとく、神社地を売却することは、人道に悖ることであり、人間の基本的生存権を奪いかねない暴挙といえよう。八幡宮を預かり、村落の融和と永続を願うことを勤めとしなければならない当職としては、まことに憂慮に堪えないところである。

 

 鎮守の森・神社地は誰のものか

 

 鎮守の森や神社地は、現代の法制度の下においてこそ一宗教法人の所有ということになっているが、理念的な観点からみれば、村落共同体に帰属すべきものであり、村の共有地や入会地などともきわめてよく似た所有形態の性格をもつものなのである。

 

 縄文・弥生の生活文化の要素をとどめる八幡宮の歴史を述べる余裕はないが、原発立地の焦点となっている神社地は、そもそも四代地区の祖先の人びとの辛苦によって、神社永続のための基本財産として確保されたのである。神社地が、地域の人びとによって八幡山と愛称されてきたゆえんであろう。そもそも、このような歴史的由来をもつ神社地を現代に生きる者たちの短絡的な経済的利益によって売却できるはずがない。八幡宮の永続は、村落の永続を意味することでもある。

 

 神社は、本来、そこに住まう人びとのものである。それゆえ、鎮守の森や神社地は、村の共有地や入会地などと同様にそこに暮らす人びとの手によって維持されてゆくのが理想的な在り方といえよう。かつてはそうであった。しかし、農漁村の活力の衰退は人心の荒廃をもたらし、その惨状は目を覆うばかりである。人びとの暮らしを支えてきた入会地も、高度成長期に入るころまでは全国的にみられた風景であるが、生活様式の急激な変化により、その言葉自体が聞かれなくなってしまった。以前、そこでは人びとが森林や原野を共有し、薪炭や牧草を採取していたのである。入会地が活用されなくなった現在においては、漁場こそ、まさに入会という言葉に相応しいであろう。

 

 八幡宮の神社地の眼下にひろがる入り江一帯は、日本生態学界が調査に入るなど、世界的にも稀有な貝類が発見されている海の宝庫である。海ならばどこにでも魚や貝が棲むなどというものではない。魚介類も人間と同じく生存の諸条件が整わないところには棲息しないのである。古来、神社地は自然のままにしておくことを慣わしとしてきた。その結果、神社地の森林が魚付林の機能もはたし、有数の漁場となったわけである。どれほど多くの人びとの生命を育む糧となってきたか、計り知れないものがあろう。まさに自然の恵みというほかない。

 

 このような地域の人びとの暮らしを支える森や海は近代の経済手システムでは、計量することのできない無限の価値をもつものといえよう。現在の金融システムがいつまでも機能しつづけるという保障は、どこにもない。信用性という体系においてのみ機能する貨幣を至上としたシステムの崩壊の時期は意外に早いかもしれない。その時、いったい人びとの暮らしはどうなるのであるか。

 

 原発に反対して78歳の生涯を終えられた間登志子さん(「反原発地主の会」副会長)の「戦争で夫を奪われ苦難を強いられたが、あの戦後の困難な時代を生きることができたのも田畑や海があったからだ」という悲痛な言葉を、私どもは、忘れることはできないであろう。生活の糧をもたらしてくれる山や海を失えば、再び豊かな自然は蘇ってこない。もし原発が立地されることにでもなれば、縄文時代からつづいてきた四代という村落共同体は、おそらくこの地上から姿を消しさることになるであろう。

 

 既述したごとく、鎮守の森や神社地は、村の共有地や入会地などともよく似た性格をもつものである。本来、神社はそこに住まう人びとのものであった。今日まで鎮守の森や神社地が護持されてきたのも、人びとの心にいだかれる自然や神々にたいする素朴な畏敬の観念によってであった。しかし、このような畏敬の観念が稀薄となれば、これを維持してゆくのは困難をきわめることになろう。現行の法制度の下では、神社地を維持してゆく管理上の責任の過半は、神職が負わなければならないのであるが、原発から神社地を護るということは、すなわち地域住民の安全を守る意に他ならないのである。

 

 みだりに処分することを禁じた神社本庁憲章

 

 風土と歴史によって形成されてきた村落共同体の生活は、法制度によっても守られなくては成らない。宗教法人法以下、現行法制度の下では、神社地の売却は不可能なことになっている。すなわち、同法第十八条の5項には、「その保護管理する財産については、いやしくもこれを他の目的に使用し、又は濫用しないようにしなければならない」とされており、この宗教法人法に大きく規制される神社本庁憲章第十条においても、また、

    神社の境内地等の管理は、その尊厳を保持するため次の各号に定めるところによる。

1 境内地は、常に清浄にして、その森厳なる風致を保持すること。

2 境内地、社有地、施設、宝物、由緒に関はる物等は、確実に管理し、みだりに処分しないこと。

3 境内地及び建物その他の施設は、古来の制式を重んずること。

4 前号の施設は、神社の目的に反する活動に利用させないこと。

とある。つまり、神社の「社有地」は、「みだりに処分しないこと」と厳格に規定されているわけなのである。この宗教法人法や神社本庁憲章の規定が存在する限り神社地なるものは、真に地域住民の福利に益さないかぎり、売却できない性格のものと断じてよい。

 

                          略

 

 しかし、事態は緊迫している。一年一度の大祭である秋祭りに、副庁長(山口県神社庁)の立場にある神職が、羽織・袴といった大仰ないでたちで、予告もなしに祭りの始まる直前に乗り込んできて祭祀を妨害するという異常事態まで出来しているのである。これは、神社二千年の歴史に未曾有のことであろう。神社土地売却に同意しないために、神社本庁(東京と渋谷区代々木)の代表役員らによって、当職の解任があらゆる手段を用いて画策されているが、副庁長による、このような秋祭りの妨害もその一環である。

 

                         略

 

法律上の最高権限をもつ神社本庁の代表役員が神社地の売却を承認することにでもなれば、それは自らが制定した法規を自分の手で破壊することであり、神社本庁自体の瓦解を意味しよう。瀬戸内海地域に暮らす多くの人びとを塗炭の苦しみに陥れる、人間の生死にかかわる問題を、いったい誰が責任をとるというのであろうか。これが犯罪でないならば、世の中に犯罪というものはない

 当職に課せられた使命はただひとつ。地域住民の安全を守るために、その基盤となる八幡宮の神社地を護持することに懸命の努力を続けてゆくことのみである。

 

 鎮守の森・神社地は、子々孫々に伝えゆくべきもの

 

 宗教性が希薄とされる神社も、宗教の範疇以外のものではありえない。現代という思想状況のもとにおいて、宗教的な観念に意味があるとするならば、それは営利至上主義的な世俗の思考を超克するところにこそ、その存在価値があるといえよう。

 

 一木一草のなかにまで霊的な生命の存在をみとめるのは、ひとり神道の思惟の根本形式であるばかりでなく、ひろくアジア的世界に生きてきた人びとの素朴な観念でもあった。仏教においても、殺生を厳しく戒めている。神社もまた言辞とするところは、まったく同じであるといえよう。生きとし生けるものの尊き生命と豊かな自然にまさるものはない。鎮守の森や神社地なるものは、その根本の理念にかんがみても、現代に生きる者たちのためにのみ存在するのではなく、遠い祖先より受け継ぎ、未来の子々孫々に伝えゆくべきものなのである。

 

                      ・・・以上・・・


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