投稿日:2017年6月16日(金)
日が長くなったなぁと思ったら、夏至がすぐそこ…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』平成29年4月24日号のコラム「神宮だより」をご紹介致します。
「【神宮だより~庶民の参宮はいつから~】
私幣禁断(しへいきんだん)といふ言葉のもつイメージとして、重く解釈する人が多い。庶民は参拝も禁止されてゐたと勘違ひして、当広報室に原稿チェックを依頼するガイドブックの校正紙がやたら目立つ。個人的な捧げ物は禁じられてゐたといふことであって、決して一般人の参拝を認めてゐなかったわけではない。『延喜大神宮式』に法令で記載されてゐるのは、裏を返せば私幣を奉る例もあったからだとも考へられる。庶民の参拝がいつから始まったのかは詳らかではないが、管見によれば、王朝時代にはすでにあったのではないかと思ふ。
荒木田氏二門の書き継ぎである平安後期の『太神宮諸雑事記』承平四年(934)九月十六日条や、大宮司家に伝はる鎌倉初期の編集『神宮雑例集』永久四年(1116)九月二十四日条などに参宮の例がみられるが、最近の研究ではいづれも神嘗祭(かんなめさい)奉仕に携はった貴賤の人々と考証した説が妥当とされる。では庶民の参宮を示す確かな初見記事は何か。それは宝治元年(1247)の『内宮遷宮記』が引用する承安元年(1171)の正遷宮(第26回)の事例であり、平安時代末期の式年遷宮時には、ある程度庶民が群集して参宮してゐたであらう。少なくとも院政期には庶民の参宮が定着してゐたのではないかと思料する。但し、それよりも早くに庶民が参拝してゐたかどうかの確証は得られない。
僧慶俊が筆録した『東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記』によれば、文治二年(1186)四月に後白河法皇の院宣を奉じて東大寺衆徒六十人が両宮を参拝した。多くの高僧が神宮に参詣したといふ噂がさぞ庶民に伝播したことであらう。藤原兼仲の『勘仲記』弘安十年(1287)の外宮正遷宮(第32回)の記録や、藤波氏経の『氏経卿神事記』寛正三年(1462)十二月二十七日条などには、遷御の儀を奉拝したい参詣者が多すぎて抑止しきれなかった内容が記されてゐる