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明治維新百五十年 明治神道人の足跡 第二回 三條實美(2/2)

投稿日:2019年2月10日(日)


夕方から降った雪も結局は積らず。ほっと胸を撫で下ろしています…権禰宜の新久田です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』では、本年が明治維新百五十年の節目にあたり、「惟神の大道」(日本民族の伝統的信念と生活原理)である神道に縁のある人物を対象として、幕末維新から明治の変革期に活躍した先人を取り上げ、思想や事績を回顧し明治の精神の顕彰と継承を目的とした記事「明治神道人の足跡」の連載がありましたのでご紹介を致します。

前回の記事はこちら

「明治神道人の足跡 第二回 三條實美(2/2)」

(國學院大學人間開発学部健康体育学科教授 藤田大誠)

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【挫折と復権】

「實萬の志を継承した實美は、尊攘派公家の中心的存在に成長し、文久三年(一八六三)二月以降、神武天皇陵修陵開始奉告・攘夷祈願の祭典斎行と前後して、神宮への攘夷祈願の勅使発遣を実現させ、攘夷祈願のための賀茂社・石清水社行幸に御用掛として供奉した。八月十三日、彼を首領とする学習院党(真木和泉守、平野國臣ら)の画策によって、「神武創業」に倣った積極的天皇像に基づく攘夷親征の大和行幸及び神宮行幸の議が一旦は決せられたが、過激な討幕親征の密計が露顕して聖慮には叶はせられず、八月十八日の政変で公武派の中川宮らに状況をひっくり返された尊攘派は失脚、實美は長州(後に大宰府)に落ち延び、雌伏を余儀なくされる(池邊義象『七卿落』)。

元治元年(一八六四)五月二十五日、實美は防州で楠木正成の神霊を祭り、祭文を捧げたが、以後幾度も楠公祭を斎行した(『梨木遺芳』)。そして文久以来、対立してゐた實美と岩倉具視は、慶應三年(一八六七)に中岡慎太郎や東久世通禧が仲介し、気脈を通じた。十二月九日の王政復古の大号令渙発後に赦免された實美は帰京し、翌年には議定と輔相を兼ね「宰相」の道を歩み始める。

祭政一致の体現

「神道人」たる「宰相」三條實美の重要性は、天神地祇御誓祭、明治天皇神宮御参拝、神祇官における諸祭典、皇霊の賢所遷座、大嘗祭などにおいて、幕末に一度挫折した積極的天皇像に基づく「祭政一致」理念が具現化された新儀としての天皇御親祭(御親拝)に伴ふ最高輔弼者(宰相)の祝詞奏上、御代拝、供奉の当事者となったことにある。

右大臣の三條は、明治四年六月に「神祇伯宣教長官兼任」、七月には太政官職制改正により「太政大臣兼神祇伯宣教長官」となった。太政大臣職掌に「祭祀」が明記された如く、天皇の祭祀大権を太政官全体が輔翼する「祭政一致」体制の基本が形成される中での三條の存在感は極めて重い(坂本是丸「近代の皇室祭儀と国家神道」)。

なほ、三條が国家からの神社切り捨て策「官国幣社保存金制度」(明治二十年)には批判的で保存金年限の延長に寄与したことも、神社行政史上、重要な事実である。

また、三條は伊藤博文が柳原前光を皇室法起草者に抜擢するきっかけを設け、自身も尾崎三良や東久世通禧ら側近に草案を検討させ、枢密院会議では皇族の臣籍降下の余地を残すことを提案するなど(但し結局は井上毅の主張する皇族永世主義を採用)、皇室典範制定にも関与した(小林宏・島善高編者『明治皇室典範(明治二二年)』)。

明治二十四年二月、三條は病臥するが、明治天皇より「中興ノ元勲實ニ臣庶ノ龜鑑」との詔書を賜った。十八日に五十五歳で帰幽し、二十五日には国葬が執行された。

最後に、西竄時代における彼の歌を引き、その「神道人」としての生き方を偲ぶ縁とする(『なしのかたえ 下』)。

梓弓もとすゑたかふよの中を神代のみちにひきかへしてむ

大君のまけのまにまに一すちにつかへまつらむいのちしぬまて」


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