投稿日:2010年1月25日(月)
元 白旗神社氏子総代会長(昭和21年頃)の山本悦三氏著書【移り変わる藤沢の街】より(郷土史研究家 平野雅道様よりご教授いただきました)
明治以来、藤沢の街には4基の忠魂碑があった。大正12年の関東大震災でいずれも倒壊していた。一ツ目は白旗神社の境内にあった。明治10年の西南戦争の高座郡の戦死者を祀ったもので、日本にある忠魂碑としては数少ない古いものの一ツである。
この忠魂碑は西南戦争で戦死した高座郡各町村の人々を祀ったものである。当時藤沢町に郡役所が置かれ、行政府であったり、治安の元締めの警察署があったので、白旗神社の境内に建立せられたものと思われる。その展額の文字は征討総督有栖川宮熾仁親王の御親筆である。
と、書かれています。
この忠魂碑の前では、毎年11月23日に招魂祭が斎行されていたようです。平野先生から拝借いたしました資料には大正14年に斎行された時の写真があり、約200名の方々が参列、神主が4名写っており、先生のお話では、『忠魂碑が元々あったのが、白旗神社・遊行寺・明治小学校・鵠沼神明社であったので、白旗神社と鵠沼皇大神宮の神主、遊行寺は遊行寺の守り神様の藤沢諏訪神社の神主が奉仕したのではないか』とのこと。
このお祭りの主催者はもちろん高座郡の役所です。政教分離などとおかしなことを言う時代ではなく、それぞれが、国のため・地域のため・愛する家族のために散って行った先人たちに敬意を表し純粋な慰霊の気持ちでお祭りをしていたことがよく分かります。
私ももう少し勉強をして、いつか忠魂碑の前で氏子・遺族・崇敬者の方々と慰霊祭を斎行したいと改めて強く思いました。
一番右の神主が、先先代の当社宮司ではないかと思います。