ホーム » 神社の歴史
神社の歴史
白旗神社の神様
寒川比古命
さむかわひこのみこと
寒川比古命は、太古の時代に、関東地方を開拓された神様です。農業、漁業、土木、商工業、建築など、さまざまな開発をされ、関東文化の基礎を築かれました。そのため、土地や人々、仕事全般の守護神として、また唯一の八方除の守護神とし て、人々に親しまれてきました。地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事や災難をとり除かせられ、開運をもたらすといわれます。
源義経公(幼名牛若丸)
みなもとのよしつねこう
義経公は、源義朝と母常盤御前の末っ子として、平治元年(1159)に生まれました。生まれてすぐに源氏の敵の平家に父を討たれ(平治の乱)、平家に捕らえられ鞍馬寺に入れられます。やがて平家が父の敵であることを知り、毘沙門天に祈って文武に励み、伝承では、武蔵坊弁慶と五条橋で対戦し、弁慶を家来としました。その後、奥州(東北地方)平泉の藤原秀衡のもとで過ごし、治承4年(1180)、異母兄の頼朝が挙兵するとその軍に加わります。木曽義仲を元暦元年(1184)1月に破り、2月には平家軍を一ノ谷で破りました。しかし、梶原景時などの関東御家人と対立、また後白河上皇の策により頼朝の許可なく官位を受けたため頼朝との仲が悪くなり、文治5年(1189)に秀衡の子藤原泰衡の急襲により平泉の衣川館にて、31歳の若さで自害しました。
共に祀られている神様
- 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
- 大国主命(おおくにぬしのみこと)
- 大山祇命(おおやまつみのみこと)
- 国狭槌命(くにさつちのみこと)
- 日本武尊(やまとたけるのみこと)
神社の歴史
白旗神社がいつごろできたのかは定かではありませんが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていました。
文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害されました。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られました。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認されました。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれています。
このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示しました。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになりました。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになりました。
年表
創立年不詳 | 相模国一の宮の寒川比古命を勧請して寒川神社と号する。 |
---|---|
文治5年(1189) | 源義経公、奥州平泉で自害する。 |
建久9年(1198) | 荘厳寺住職覚憲が別当職となる。 |
宝治3年(1249) | 9月源義経公を合せ祀る。 |
享保3年(1718) | 紀州公姫君が参勤交代の折に藤沢御殿で腹痛を起こし、大神に祈願してたちまち全快する。これにより木杯1個、紋章幕、高張が奉納され、例祭は10万石の格式を誇ったという。 |
享保4年(1719) | 荘厳寺本堂を神社境内に建てる。 |
宝暦2年(1752) | 御社殿を再建して、旧坂戸町総鎮守社となり、社号を「白旗神社」に改める。 |
文政3年(1820) | 2月8日、火災により御社殿及び古書類等を焼失する。 |
天保6年(1835) | 12月、現在の御社殿を造営する。文政11年(1828)6月より7年の歳月をかけて再建。 |
明治元年(1868) | 神仏分離の法令が発令される。 |
明治8年(1875) | 神仏分離令により荘厳寺住職は別当職を解かれ、本堂を移転する。 |
昭和55年(1980) | 7月、御社殿の大改修工事を行う。 |
社紋
笹竜胆
義経(源氏)の紋章
輪宝
弁慶の紋章