投稿日:2017年5月11日(木)
境内の梅が青い実をつけ始めました。五月の別名を、梅色月(うめのいろづき)というそうです。まさに時季通りの名前ですね…権禰宜の遠藤です。
さて、伊勢神宮崇敬会だより「みもすそ」平成29年春号に掲載されている、特集「斎王の宮」をご紹介致します。今回はその第2弾です。
(前回の記事はこちら)
歴史に興味にある方は勿論、本年6月3・4日に第35回斎王まつりが三重県明和町にて行われますので、斎王まつりにお越しになる方はその予備知識としてご一読いただけましたら幸いです。
「【斎王制度のはじまり】
『日本書紀』には、崇神天皇の御代、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が天照大御神を大和国の笠縫邑(かさぬいのむら)におまつりしたとあり、最初に大御神を奉斎した皇族女性です。大御神を奉斎された皇族女性としては、豊鍬入姫命、倭姫命(やまとひめのみこと)以降、七代にわたりその存在を伝える史料がありますが、斎宮に着任した制度上最初の斎王は天武天皇の皇女である大来皇女(おおきのひめみこ)で、十四歳から十三年間にわたり役目を果たされました。
壬申の乱のとき(672年)、天武天皇が大御神に勝利を祈願して叶えられたため、自らに代わって神宮に奉仕するよう皇女を伊勢に遣わしたと伝えられます。
斎王のつとめは、神宮で最も重きを置かれる九月の神嘗祭(旧暦)、六月と十二月の月次祭の三節祭に赴き、太玉串を捧げること。それ以外はほとんどを斎宮で過ごされ、宮中行事に奉仕されたと推察されていますが、詳しい日常生活については明らかではありません。
斎王が、天皇が即位されるたびに未婚の内親王または女王の中から「亀卜」という占いによって選ばれ、天皇の譲位・崩御や、斎王の近親者の不孝・本人の病気などの理由により任が解かれました。
奈良時代に制度が拡充され、平安期には文化・勢力ともに最高潮を迎えますが、武家が権力を強めるにしたがい衰微し、後醍醐天皇の御代(1336年頃)、祥子内親王で六百六十年間続いた斎王制度は途絶えました。」