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義経 北行伝説 (神社新報より)

投稿日:2010年6月26日(土)


 

神社新報─ 平成17(2005)1121日付 06

 NHKの大河ドラマ「義経」は平家滅亡のあと、頼朝との対決がもはや恢復不可能となり、物語はいよいよ最終局面を迎へつつある。義経の最期は、鎌倉幕府による正史『吾妻鏡』では、奥州・衣川(岩手県胆沢郡)で自害し、三十一年の短い生涯を終へたことになってゐるが、その五百年後にまとめられた徳川幕府の正史『本朝通鑑』には「逃れて蝦夷島に至る」といふ「俗伝」が載ってゐる。世にいふ「義経北行伝説」。「伝説」を確実に裏付ける資料はないが、「伝説」以上に真実みを伝へるゆかりの神社は数多い。舞台はむろん北東北である。

北海道から鹿児島まで 義経公が祭神の神社八社
 神社本庁の祭祀祭礼データベースを使って調べてみると、「源義経公」を祀る本庁傘下の神社は八社、意外にも北海道から鹿児島まで全国に広範囲に分布するが、なぜ義経公が祀られたのか、詳細が不明な例もある。
 横浜市戸塚区品濃町の白旗神社(椎木葉子宮司、地図1)は康元元年(一二五六)創建の村の鎮守で、義経公を主祭神とする。社名は源氏の旗印にちなみ、鎮座地の丘は「白旗山」と呼ばれる。
 同じ神奈川県藤沢市藤沢の白旗神社(近藤正宮司、2)は往古、相模国一ノ宮・寒川神社を勧請して創建された。奥州で敗死した義経公の首が首実検のあとで埋められたのがこの地で、宝治三年(一二四九)に合祀され、宝暦三年(一七五二)に社殿を再建したとき、白旗神社と号したといはれる。社前に首塚、首洗井がある。
 北海道沙流郡平取町に鎮座する義経神社(三上智彦宮司、3)は寛政十年(一七九八)に幕命を受けて蝦夷地探検にやってきた近藤重蔵が、アイヌが祖神オキクルミカムイを崇拝し、かつ義経公を崇敬してゐるのを知り、両者は同一人物だと説いて義経像を寄進、社祠が創建された。明治の神仏判然で当時、門別稲荷神社境内にあった義経像が祠とともに焼却されさうになったとき、平取アイヌの長老ペンリウクらは「自分たちの神である」と像を持ち帰り、現在地に祀った。同九年に義経社は村社に列せられ、昭和十六年に現社名に変更された。
 秋田県能代市磐の熊野神社(石山篤宮司、4)は遠征先で苦戦する坂上田村麻呂が熊野大神に願をかけ、大願成就したのちに分霊を勧請、創祀したと伝へられる。
 高知県高岡郡窪川町口神ノ川の羽衣神社(岩崎猛宮司、5)は創建年月不詳の神社で、産土神大明神と称してゐたが、明治初年の神仏判然の際、かつて羽衣神社の祭りがあったことから、現社名に改称された。
 同町奈路の判官神社(山中修宮司、6)は創建年月、縁起など未詳。隣村に鎮座してゐた古くからの産土神が、昭和になって遷座したといふ。
 佐賀県神埼郡三瀬村の杉神社(田中雅治宮司、7)は文永元年(一二六四)に筑前国・香椎宮を勧請して創建され、明治末期に義経公ほか無格社八柱が合祀された。
 鹿児島県曽於市末吉町の五位神社(上原尚士宮司、8)は十六世紀、正親町天皇の御代、戦国武将・島津義久が義経公の知勇と徳を称へて、五位山に創祀したと伝へられる。社名は義経公の官位にちなむ。
 以上は法人格を持ち、神社本庁のデータベースに記録されてゐる、義経公を祀る神社で、これら以外の義経公ゆかりの神社はとりわけ北東北に数多く分布してゐる。

 

岩手県から北海道へ 道づたひに連なる「伝説」
 ゆかりの神社は「北行伝説」の足取りをたどるかのやうに岩手、青森に単線上に連なってゐる。鎌倉幕府の正史では義経公は文治五年(一一八九)に自刃したことになってゐるが、「義経北行伝説」ではその一年前に妻子や郎党十数人とともに平泉を出発し、江差、遠野、宮古、八戸、青森、十三湊を経て、本州最北端・三厩から津軽海峡を渡り、蝦夷地に向かったと伝へられてゐる。主な神社などをたどってみる。八百年前にさかのぼる「伝説」ゆゑ、不明な点が少なくない。
 一般には最期の地とされる岩手県平泉町平泉、高館山の山頂には義経公を祀る義経堂(地図9)がある。天和三年(一六八三)に仙台藩主が建てた。義経像が安置されてゐる。
 もともと自然の祠で、坂上田村麻呂の故事が伝へられる江刺市玉里の玉崎駒形神社(及川晟哉宮司、10)には義経一行が五日間、逗留し、武運長久と道中の安全を祈願したといはれる。経文や槍、太刀などが奉納されたといひ、宝物殿には義経奉納と伝へられる槍の穂先「源氏の槍」が納められてゐる。
 遠野市上郷町板沢に駒形神社(お蒼前さま、11)といふ祠がある。赤羽根峠の難所を越えたあと、この地で息絶えた義経公の愛馬「小黒号」を葬った墓と伝へられる。
 釜石市橋野町中村の高台には中村判官堂(12)がある。義経一行が同地の旧家に泊まり、鉄扇や書き物などを残した。のちにこの家の祖先は義経公を祀る祠を建てたのだといふ。同市片岸町室浜の宝冠神社(13)は山越えしてきた一行が野宿した地とされ、同地の旧家が代々祀ってきた。
 上閉伊郡大槌町宮口の宮ノ口判官堂(判官様、14)も義経一行が野宿した地と伝へられる。同町和野の和野大明神(判官大明神、15)は山の上に鎮座し、同町八幡の駒形神社(駒形大明神。十王舘正一宮司、16)は一行が馬をつないで休息をとったと伝へられる。いづれも義経公を偲んで祠が建てられた。駒形神社は明治になり神社となった。牛馬信仰が中心だといふ。
 下閉伊郡川井村鈴久名の鈴久名八幡宮の境内にある鈴ヶ神社(静御前さま、17)は、静御前の屋敷があった地と伝へられる。「鈴ヶ」は「静」の当て字といふ。同村箱石の高台に鎮まる判官神社(判官大明神、18)は一行が滞在し、毘沙門天を祀ったといはれる。義経公と北の方などの木像が納められてゐる。境内一帯は「判官山」と呼ばれる。いづれも祭祀は土地の人たちによっておこなはれてゐる。
 宮古市茂市の旧家の屋敷神・日月山神鏡宮(日向日月神社、19)は保元の乱で敗れた源氏の落人が創建したとされる。同家の祖先で義経公の遺子と伝へられる佐々木四郎義隆が祀られてゐるといふ。同市津軽石には一行が滞在した「館山(判官館)」があり、その中腹に判官神社(20)と称される小さな祠がある。一行が立ち去ったあと、創建されたといはれる。同市長沢の長沢判官堂(21)は義経一行が宿を借りた折、村人がお供を申し出たところ、義経公は「世を忍ぶ身」と固辞、のちに村人は公の石像を刻み、武運長久を祈ったと伝へられる。
 「宮古」の地名伝説が残る同市宮町の横山八幡宮(花坂幸男宮司、22)に伝はってゐた「重修横山八幡宮記」は義経一行が道中の安全祈願のため同宮に参籠してゐたと記してゐた。境内にはかつて弁慶直筆の大般若経を納めた観音堂があった。家臣の鈴木三郎重家は老齢のため、一行と離れてこの地にとどまり、同宮の神主となり、宮古地方の鈴木姓の始祖となった。重家はのちに土御門天皇の御代に上洛し、義経公の北行を朝廷に伝へたといはれる。
 頂上から市街地を一望できる同市本町の館山は「判官山」「黒館」「九郎館」と呼ばれ、義経公の館があったとされる。館跡に鎮まる判官稲荷神社(判官稲荷大明神。花坂幸男宮司、23)に伝はる「奥州閉伊郡宮古判官稲荷縁起」には義経公の甲冑を納め、創祀されたと記されてゐる。
 同市山口の黒森神社(花坂幸男宮司、24)は、古くから信仰されてきた霊山「黒森山」の中腹に鎮座する。義経一行はここに三年三カ月逗留し、道中の安全を祈願して大般若教六百巻の写経に努めたといはれる。宮古から海路、蝦夷地に向かふつもりだったのかも知れないが、「伝説」ではさらに陸路の旅が続く。
 下閉伊郡岩泉町の土地の人に守られてゐる賀茂神社(25)は義経公の子を祀ってゐるといはれる。同郡田野畑村の畠山神社(26)は、頼朝から義経捕縛の命を受け、一行を追ふ畠山重忠一族の馬がここで斃れたため祠を建て、鐙を供へたのが起源といふ。
 同郡普代村の鵜鳥神社(熊谷儀一宮司、27)は、卯子酉山で金色に輝く身の丈五尺の鵜を見て、神威を感じた義経公が七日七夜の祈願祈祷をおこなひ、渡海の無事を祈願、山頂に卯子酉大明神を祀ったといはれる。
 久慈市長内町の高台に鎮座する諏訪神社(勝田好道宮司、28)は追っ手の畠山重忠公が義経公自刃の年、文治五年に創建したと伝へられる。義経公に同情してわざと矢をはづし、義経公を救った。その矢を御霊代として祠を建てたといはれる。

 


北行伝説に関はる神社に 公を祀る神社がない不思議
 青森県八戸市は「北行伝説」が集中して伝はる。種差海岸に近い市鮫町の熊野神社(浪打磐根宮司、29)は岩手から海路北上した一行が上陸後、ここで休憩したと伝へられる。
 同市河原木、高館山東麓の八幡宮(小田八幡宮。河村光穂宮司、30)は前九年・後三年の役の際、遠征してきた源頼義が館を築き、八幡社を創建したのが始まりで、のちに義経公もここを住まひとし、毘沙門天を祀った。その毘沙門天像のほか、一行が写経した大般若経がいまも伝はる。境内には毘沙門堂、義経堂もある。義経公はこの地に小さな田を開いた。それが「小田」の地名の由来といはれる。
 同市内丸、市街地の中心で八戸城二の丸跡に鎮まる八戸地方の総鎮守・《A-27》神社(坂本栄治宮司、31)には、「北行伝説のオリジナル」ともいはれ、八戸での一行の足取りを記した「類家稲荷大明神縁起」が伝はる。享保十七年(一七三二)に榊家の子孫が語った家伝を八戸藩医の関諄甫が聞き書きしたとされる。同社はもともと高《A-27》神を祀る神社だが、この地で亡くなった北の方(久我大臣の娘)が「報霊大明神」として合祀され、その手鏡を所蔵する。
 同じく同市内丸の三八城神社(野田健栄宮司、32)には、弁慶の足跡が刻まれた「弁慶石」がある。元禄二年(一六八九)に二代八戸藩主南部直政公が南部藩始祖・甲斐源氏の新羅三郎義光命を祀る新羅宮を勧請した。
 村人に守られてゐる同市類家の類家稲荷神社(藤ヶ森稲荷神社、33)は京都・伏見の藤ヶ森稲荷神社を崇敬してゐた義経公が勧請し、みづから神事をおこなったといはれる。
 「えんぶり」で有名な同市長者、長者山新羅神社(柳川浩志宮司、34)が鎮座する「長者山」は義経公の家臣・板橋長治が居を構へたとされる。延宝六年(一六七八)に二代藩主直政公が新羅三郎義光命を主祭神とする神社を創建した。
 さて、津軽半島から蝦夷地に渡った義経一行は沙流川河口で日高での第一歩を印した。沙流アイヌと一戦交へたあと和解し、粟や稗の栽培、操船術、機織りなどを伝へ、沙流アイヌは義経公を「判官様」と呼んで崇敬した。一行はさらに稚内から大陸に渡り、モンゴルで成吉思汗と改名、諸民族を平定したーー。
 岩手と青森にまたがって分布する、「北行伝説」にまつはる神社はまるで昨日のことのやうに義経公の足取りを伝へてゐる。まさに歴史のロマンだが、不思議なことに、公を祀る祠や堂があり、妻子を祀る神社はあるものの、義経信仰の核になるやうな公を祭神とする神社は両県にはない。近世、盛んになった義人信仰が幕末・明治維新以後、神社に発展した例は枚挙にいとまがないが、「義経伝説」は神社創建までは到らなかった。人霊を祀る神社の成立を考察するヒントが「伝説」の神社に隠されてゐるかもしれない。
(参考文献=伊藤孝博『義経、北行伝説の旅』、義経を語る会『カムイ義経』など。調査・執筆=神社本庁参事・佐藤弘毅、本紙編輯部・斎藤進)

 


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
ぜひ早起きした朝やお休みの日にでも、お気軽に当社にお越しください。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。